二人の「我究」がぶつかった。30歳でDVD事業を始めた伊尾喜大祐さんの決断

インタビュー
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1999年、30歳になった伊尾喜大祐さんは、「俺、日本でいちばん最初にDVDプロデューサーという肩書きを名乗ります」と宣言して、DVDの制作事業を始めた。30歳で起業すると決めたのは、就活を始めたばかりの1993年のことだった。

決めてから実行するまでの6年間に、伊尾喜さんは第一志望の会社に入り、やりたかった制作とは別の営業と経理を任され、会社を辞めて我究館の副館長になっています。事業を始める時期には、我究館を創設した杉村太郎さんの夢とも、ぶつかることになりました。回り道にも見える6年間と最後の決断で、伊尾喜さんが何度も立ち返ったのは、学生時代の我究で言葉にしたものでした。我究館では、自己分析のことを「我究」と呼んでいます。いまも「毎日が我究の結果なんです」と話す伊尾喜さんに、我究がキャリアと生き方に何をもたらしたのかを伺いました。

構成・取材/絶対内定ラボ編集部

【プロフィール】
伊尾喜 大祐(いおき だいすけ)
早稲田大学商学部卒業。在学中の1993年に我究館第1期を受講し、第一志望のレコード会社、パイオニアLDCから内定を得て、1994年に入社。

1996年に株式会社ジャパンビジネスラボに入社し、我究館副館長として1000人を超える学生の指導にあたる。1999年にDVD制作事業を始め、2026年までに、セル版・レンタル版を合わせて延べ250タイトル以上のDVD・Blu-rayを企画・制作。代表作に『ウォーターボーイズ』『HERO』『テルマエ・ロマエ』『約束のネバーランド』『今夜、ロマンス劇場で』『君の名は。』(ビジュアルコメンタリーのプロデュース)など。

2009年からは映画・ドラマ作品の公式SNSのプロデュースも手がけ、近年の担当作品に『やんごとなき一族』『新宿野戦病院』『シナントロープ』など。MEDISH主宰。我究会(我究館OB・OG会)名誉会長。

紙は情報のお皿

学生時代の伊尾喜さんは、映画の感動を丸ごと家に持ち帰れるレーザーディスクのソフトを作りたいと考えていました。それと同時に、やらなければならないと感じていることも抱えていたそうです。実家は紙の卸売業を営んでいて、製紙メーカーから仕入れた紙を断裁し、印刷会社に納めていました。祖父が立ち上げ、父親が継いだ会社です。

「『お前、当然継ぐんだよな』という言葉にならないプレッシャーを、実家暮らしの学生は受けているわけです。父親に言われてもヘラヘラと『まあね、いつかね』と逃げてはいましたが、心の中にはずっと刺さっていて、『さあ、どうしよう』と考えていました」

二つを結びつけるヒントをくれたのは、父親の親友である印刷会社の社長でした。社長は30年以上前から、Macを使ったDTPに取り組んでいた人です。

「その方が『俺は自分のことを印刷屋だと思うのをやめていて、情報工場の社長だと思ってんだよ』と言うんです。それを聞いて、紙は情報のお皿なんだと思いました。レーザーディスクも、映像や音声や文字の情報をデジタル化して、お皿に盛り付けている。同じことをやっているんじゃないかと」

伊尾喜さんは、メディアとしてのお皿という意味で「メディッシュ」という名前を考えました。家業の3代目に収まる代わりに、創業者としてデジタルの光メディア事業を会社に加えれば、事業を大きくできるのではないか。やりたいことと、やらなければならないことを、ひとつにまとめる形が見えたわけです。1969年生まれの伊尾喜さんは、30歳になる1999年にこの事業を始めると決めました。1993年1月ごろ、就活を始めたばかりのころの話です。

回り道に見えた4年間

1993年4月に我究館の1期生となった伊尾喜さんは、その年の6月末、第一志望だったパイオニアLDC(現在のNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)から内々定を受けます。映像ソフト制作のノウハウを身につけ、30歳で起業する。そのための就職でした。

ところが1994年の入社後、最初に配属されたのは大阪の営業所でした。レーザーディスクを作りたくて入ったのに、担当したのはそれを売る仕事です。2年後に東京へ戻る辞令が出て、今度こそ制作かと思ったら、経理でした。人事部長からは、会社の通信教育で英文会計を勉強するようにも言われています。

計画から離れてしまうと感じた伊尾喜さんは、我究館を創設した杉村太郎さんに相談します。返ってきたのは「我究館で働きながら、起業する準備をすればいいじゃん」という提案でした。1996年の秋、伊尾喜さんは会社を辞め、5期生のスタートから我究館の副館長を務めます。

副館長として学生を指導しながら、伊尾喜さんはDVD業界への足がかりを探っていました。1997年から98年ごろには、映画の仕事をしたくてたまらない状態だったそうです。そのころ、ソニーに就職してプレイステーション2の仕事に参加した教え子から、「PS2、DVDが再生できるようになりますよ。伊尾喜さん、DVDの仕事を始めるなら今ですよ」と背中を押されます。

二人の夢がぶつかったとき

「キャリアチェンジのときは、僕にとってのやりたいことである『一歩踏み出す勇気を伝える』ことができるかどうかを考えます。いま自分が何をすべきか、どういう行動を始めるべきかは、学生時代の我究に戻って考えるんです」

「一歩踏み出す勇気」は、伊尾喜さんが学生時代の我究で言葉にしたものです。特撮映画サークルの活動で、初代仮面ライダーを演じた藤岡弘、さんにインタビューしたとき、大けがを押して現場に戻った話を聞き、作り手の思いに心を動かされた体験がもとになっています。伊尾喜さんにとっては、我究館で学生を指導することも、DVDを作ることも、この言葉につながる仕事でした。

「太郎さんには『8期生までやってくれ』と言われていましたが、僕は30歳でDVD事業を立ち上げると決めていたし、DVD業界でイニシアチブを取るなら、いまがそのタイミングだと感じていました。一方、太郎さん自身にも海外留学という夢があり、その間は僕に我究館を任せたいという思いがあったんです。お互いに自分の夢を実現しようとしていたのに、そのタイミングがぶつかってしまった。だから、簡単には話がまとまりませんでした」

話し合いのあいだには、太郎さんの親友で、我究館1期生のコーチとして伊尾喜さんたちを指導した恩人でもあるBさんが、間に入ってくれたこともあったそうです。

「そのあとすぐ、太郎さんが後任の人選を進めていることを知りました。それで、僕の決断を受け入れてくれたんだなと思ったんです。その後は太郎さんも僕のDVD事業を応援してくれましたし、僕も太郎さんの留学準備をお手伝いしました。ニューヨークまで会いに行って、タイムズスクエアのカフェで深夜まで語り合ったこともあります」

レーザーディスクで本来やりたかったことも、容量の大きいDVDならもっと実現しやすくなる、と伊尾喜さんは考えました。

「まだ誰も名乗っていないよね、よし、言っちゃおう、と」。伊尾喜さんはそう考えて、DVDプロデューサーを名乗りました。1993年1月、印刷会社の社長の言葉を聞いて決めた「30歳で起業する」を、伊尾喜さんは30歳になる1999年に実行しています。


太郎さんとNYで。

回り道で身につけたもの

その後、伊尾喜さんは『ウォーターボーイズ』(2001年)、『HERO』(2007年・2015年)、『テルマエ・ロマエ』(2012年)などのDVD・Blu-rayを手がけ、2026年までにセル版・レンタル版を合わせて延べ250タイトル以上のソフトを企画・制作しました。

独立してから役に立ったのは、パイオニアLDC時代に回り道だと感じていた経験でした。

「自分で仕事を取るには営業の経験が、会社のお金の流れを理解するには経理の経験が役立ちました。英文会計は結局勉強しませんでしたが、学生時代に身につけた英語力は、『スター・ウォーズ』などの映画音響を手がけるルーカスフィルムの音響制作部門、スカイウォーカー・サウンドなど、海外の方々との仕事に生きています。当時はやりたいことから遠ざかっていると感じても、身につけたものまでなくなったわけではなかったんですね」

盤面からネットへ広がった情報の器

2009年からは、SNSの仕事にも取り組んでいます。出発点は、映画『SP 野望篇』『SP 革命篇』の制作現場を、Twitterで実況中継する取り組みでした。日本映画界におけるTwitter活用の先駆的な試みとして、当時から注目を集めました。

いまも伊尾喜さんは、ドラマや映画の公式SNSの企画・制作・運用を手がけ、撮影現場での取材や写真・動画の制作、投稿内容のディレクションなどを担っています。最近の担当作品には、『やんごとなき一族』(2022年)、『あなたがしてくれなくても』(2023年)、『新宿野戦病院』(2024年)、『シナントロープ』(2025年)、『スピナーベイト』(2026年)があります。

「キャストの頑張りやスタッフの頑張りを、DVDを作る以上に近くで見て、動画や写真を撮って、文章にして、番組の公式アカウントで投稿していく。やっていることは、DVDを作っていたころと一緒なんです」

「一歩踏み出す勇気を伝えたい。我究館風に言えば、これが僕の『ヤリタイコト』のコアです。映画やドラマを作る人たちが、何を思い、どう悩み、どうやって一歩を踏み出したのか。その思いや行動を、どう観客に届けるか。DVDやBlu-rayに加えてSNSへと、届けるためのメディアが広がっても、伝えたいものは変わっていないんだと思います」

レコード会社の営業と経理、我究館の副館長、DVDプロデューサー、SNSプロデューサー。経歴だけを並べると、ばらばらに見えるかもしれません。

「なんでこの人はこんなにとっ散らかったキャリアなんだろう、と思う人もいるかもしれません。でも、振り返ってみたら、とっ散らかっていないんです。そのときそのときで、自分のやりたいことはこれだ、これで実現できる、というものがあったから、いままで生きてこれた」

紙から盤面、ネットへと器が広がっても、伊尾喜さんが選ぶ基準は、学生時代の我究で言葉にしたものから動いていません。

毎日が我究の結果

伊尾喜さんが我究の真価を感じるのは、キャリアの転機だけではありません。

「我究で自分の中に培われた物差し、判断基準がありますよね。転職のような大きな選択でも、例えば日常の『あれ? いまクレームの電話が来たぞ。どう対処しよう』ということでも、Aを選ぶかBを選ぶかを決める基準は、自分の物差しだと僕は思っています。その意味では、毎日が我究の結果なんです」

取材の終盤、自己分析に時間をかける意味をひと言で表してほしいとお願いすると、伊尾喜さんは「こいつは難しい質問ですね」と考え込み、「一生ものの武器です」と答えました。

「人生を切り開いていくうえでの武器です。仕事をしていれば、やっぱりいろんな決断を迫られたり、トラブルに遭ったりしますよね。でも、そういうときに、自分は何を大事にしているのか、これだけは譲れないというものが、自分の中にあるかどうか。これが大きいと思うんです。自分で引き受けるべきことなら『ここは自分がやるから』と言えるし、自分ひとりでは難しいと思ったら『ここを助けてくれない?』と人に頼ることもできる。自分の中に判断の物差しがあるから、周囲に流されず、自分で考えて行動を選べるんです」

自己分析は一生続けるものだ、とも伊尾喜さんは話します。結婚したり親になったりすれば、価値判断の基準には変わる部分も、変わらない部分も出てきます。

「太郎さんと『恋愛我究とか、ファミリー我究なんてのも面白そうだよね』って話していたことがあるんです。もっとも、当時は二人とも独身。そこはまず、自分たちが我究しろよ、って話なんですけど(笑)」

「いまの若い人たちは、その場で100点満点を出さなきゃいけない、自己分析で100点満点の自分を見つけなきゃいけない、と考えて、プレッシャーで踏み出せない人もいるんじゃないかと思うんです。でも、そんなに時間をかけなくてもいい。折に触れて考えるものだから、メモに取っていけばいいんです」

副館長時代、伊尾喜さんが学生にすすめていたのが「三行日記」でした。家に帰ったら、今日やったこと、感じたこと、繰り返したくないことを三行で書いておく習慣です。これだけでも、学生たちはだいぶ変わったそうです。

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我究館を離れてDVDの事業を始めようとしたとき、伊尾喜さんの前には、同じように自分の夢を持った太郎さんがいました。二人の夢は同じ時期にぶつかりましたが、そのあとも互いの夢を応援し合う関係が続いています。会社で営業と経理を任されたときも、我究館を辞めるときも、SNSに仕事を広げるときも、伊尾喜さんが判断の基準にしたのは、学生時代の我究で言葉にした「一歩踏み出す勇気を伝える」ことでした。

1993年に「30歳で始める」と決めた学生は、1999年に本当に始め、いまも「毎日が我究の結果」と言います。最初から100点満点の答えを出す必要はありません。今日やったこと、感じたこと、繰り返したくないことを、まず三行だけ書いてみてください。

【我究館1期生 伊尾喜大祐さん インタビュー連載(全3回)】

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監修者プロフィール

絶対内定ラボ編集部

『絶対内定』シリーズは、日本で最初の就職・転職活動支援スクールである我究館による発行本です。大学生協18年連続売上第1位の一番売れてる自己分析本で、人気・難関企業への多数の採用実績をもとに、「何をすれば内定するのか」を具体的に提示しています。