いまや就活の王道ともいえる「自己分析」は、どう育ち、どう受け継がれたのか。我究館の元副館長・伊尾喜大祐さんと、朝まで語り合った教え子たち

インタビュー
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自己分析のワークシートを、一人で何枚も埋めてきた。書いたものを読み返しても、これで合っているのかがわからない。誰かに見てもらいたいのに、自分の過去を友達に話すのは少し気恥ずかしい。

自己分析は、一人で机に向かう作業だと思われがちです。とはいえ一人で書いていると、自分が当たり前だと決めつけていることには、なかなか気づけません。

映像ソフトやドラマの公式SNSを手がける伊尾喜大祐さんは、かつて我究館の副館長として、1000人を超える学生を指導していました。我究館の1期生として、創設者の杉村太郎さんから受け取ったものを、今度は学生たちに渡す側に立ったのです。伊尾喜さんの教え子たちは、授業が終わったあとも自分たちで集まり、朝まで語り合っていたそうです。人から人へ何が受け継がれていったのかを、伊尾喜さんの話からたどります。

構成・取材/絶対内定ラボ編集部

【プロフィール】
伊尾喜 大祐(いおき だいすけ)
早稲田大学商学部卒業。在学中の1993年に我究館第1期を受講し、第一志望のレコード会社、パイオニアLDCから内定を得て、1994年に入社。

1996年に株式会社ジャパンビジネスラボに入社し、我究館副館長として1000人を超える学生の指導にあたる。1999年にDVD制作事業を始め、2026年までに、セル版・レンタル版を合わせて延べ250タイトル以上のDVD・Blu-rayを企画・制作。代表作に『ウォーターボーイズ』『HERO』『テルマエ・ロマエ』『約束のネバーランド』『今夜、ロマンス劇場で』『君の名は。』(ビジュアルコメンタリーのプロデュース)など。

2009年からは映画・ドラマ作品の公式SNSのプロデュースも手がけ、近年の担当作品に『やんごとなき一族』『新宿野戦病院』『シナントロープ』など。MEDISH主宰。我究会(我究館OB・OG会)名誉会長。

太郎さんから受け取ったもの

伊尾喜さんが我究館に入ったのは1993年4月、開講の翌年です。我究館では、自己分析のことを「我究」と呼んでいます。太郎さんは、人を惹きつける求心力がすごくある人だったと伊尾喜さんは振り返ります。1期生たちは、その太郎さんに「夢はあるか」と問われ、「えっ」と戸惑うところから我究を始めました。

「我々1期生は、海のものとも山のものともつかない我究館にお金を払って来ています。とにかくこの人が面白そうだから来た、という学生が多かった。実績もないところにお金を払ったんだから、『悪いけど、もらえるものは全部持っていくからな』というギラギラ感がありました」

ほかの会社の面接で結果が出ず、自分のやりたいことまで見えなくなっていた時期に、伊尾喜さんは太郎さんの面談を受けています。そこで言われたのが「君は情熱のかたまりだ」という言葉でした。伊尾喜さんは、太郎さんと自己分析を深めるなかで、自分にとって大切なのは「一歩踏み出す勇気」だという答えにたどり着いたといいます。

1994年、伊尾喜さんは第一志望だったパイオニアLDC(現在のNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)に入社します。映像ソフト制作のノウハウを身につけ、30歳で起業する、という計画を持っての就職でした。

「ところが、最初の配属は大阪の営業所。レーザーディスクを作りたくて入ったのに、まず担当したのは、それを売る仕事でした。2年後に東京へ戻る辞令が出て、今度こそ制作かと思ったら、経理。さらに人事部長から、会社の通信教育で英文会計を勉強するように言われました」

このままでは、30歳で起業するという、かねてから思い描いていたビジョンを実現できなくなるのではないか。そう感じた伊尾喜さんは、太郎さんに相談します。

「太郎さんは1期生のころから、僕の夢の良き理解者でした。そんな太郎さんが、『我究館で働きながら、起業する準備をすればいいじゃん』と提案してくれました。最後には『で、いつからウチ来る?』と。なんてでっかい兄貴なんだろう、と思いました」

大学時代、伊尾喜さんは大学受験予備校でチューターのアルバイトをしていて、人に教えることが好きでした。1期生として内定を得たあとは、仲間と「筆記対策プロジェクト」を立ち上げ、後輩の2期生たちの就活を自主的に支えています。1996年2月からは、パイオニアLDCに勤めながら、週末に我究館の講義を担当しました。それまでの指導だけでは受け止めきれなかった、さまざまな個性を持つ受講生のために、新しい受け皿をつくる試みでもあったそうです。そして同じ年の秋、伊尾喜さんは株式会社ジャパンビジネスラボに入社し、5期生のスタートから我究館の副館長を務めます。


1992年 我究館1期生 通年クラス授業風景 見守る太郎さん

列のいちばん後ろを歩く副館長

副館長として戻ってきた伊尾喜さんは、学生の変化に気づきます。4期生までの我究館は、夜中でも学生が元気な「動物園」だったといいます。『絶対内定』の売り上げが伸び始めたころから、「ここに来ればなんとかなるんじゃないか」という我究館頼みの学生が増え、伊尾喜さんの言葉でいえば、我究館は「学校化し始めて」いました。

太郎さんのテンションや勢いについていけない学生も出てきます。

「遠足でいえば、いちばん前でいちばん元気なのが館長です。『お前らついてこい』と言って、みんながわーっとついていく。その中で『もう無理です、ついていけません』という学生が出てくる。僕はいちばん後ろにいて、『はいはい、歩いて歩いて』とやっていました。それが僕と太郎さんの役割分担でした」

太郎さんはバリバリの体育会系で、ツッコミは容赦がなかったそうです。サブカルチャーが好きな学生がどれだけ熱く語っても、太郎さんには響かないこともありました。怪獣サークル出身の伊尾喜さんは、そうした学生の話に食いつく側でした。太郎さん自身も、自分とは異なるタイプの学生を受け止める役割を、伊尾喜さんに期待していたといいます。

「太郎さんが『へー』で終わらせた話に、僕が『え、マジで』と食いつく。すると学生は『わかってくれる伊尾喜さん』みたいになるわけです。ついてこれなくてもいい。でも、僕たちはいつでも手を差し伸べている。つかむかどうかは自分で決めてください、と言っていました」

差し伸べた手をしっかりつかんで、くらいついてきた学生は、大きく変わっていきました。「太郎さんには距離を感じるけれど、伊尾喜さんなら話せる」という学生も少なくなかったそうです。反対に、頭でっかちになって、できない理由を考えることに終始して動けない学生は、つまずきがちでした。

「小さなことでも実際に動いて、成功体験を得たことで、見違えるように変わっていく学生をたくさん見ました」

伊尾喜さんは学生たちに、自分の就活の話もしています。父親の友人をたどってOB訪問をしたら、相手が最終面接に出てくる取締役だった。その話を聞いた学生たちは、キョトンとして「そんなことやっていいんだ」と言ったそうです。

「学校の校則みたいなルールが就活にもあって、それを守らなきゃいけないんじゃないか、という既成概念が、みんなどこかにあるんです。でも、社会に出て仕事を選ぶときに、別にルールなんてないじゃないですか」

ファミレスで朝まで続いた自主ゼミ

授業が終わるのは夜の10時ごろです。学生たちはそのまま家に帰らず、我究館の近くのファミレスに集まって、朝まで続きをやっていたといいます。

「ロイヤルホストの前を通ると、『今日もいる』と見つけてしまう。見つけた以上は監督役として入らないといけないので、『やってんの?』と入っていって、彼らのゼミのサポートをしていました。時に意見を戦わせて、時に励まし合って。クラスの授業が終わったら、新聞業界志望の学生だけで集まるとか、テレビ業界志望で『テレビゼミ』をやるとか、分科会のようなことを自主的に始めて。そうなると強いですよね、お互いに刺激し合って」

90年代の深夜のファミレスには、確かな熱気があり、学生たちが語り合う夢がありました。集まる場所は深夜のファミレスに限りませんでした。日中でも「伊尾喜さん、いまやってるから来て」「誰々の家でやってるから来ない?」と声がかかったそうです。「こんな卒業生はいませんか」と相談されると、伊尾喜さんは該当する期の卒業生に声をかけ、講演に来てもらう段取りもしました。

太郎さんに「夢はあるか」と問われて我究を始めた1期生が、副館長として学生のそばに立つ。その学生たちが、誰に言われるでもなく夜通し集まり、互いの夢に突っ込みを入れ合う。太郎さんから伊尾喜さんに渡ったものを、学生たちは自分たちの手で受け渡し合うようになっていました。

教え子から返ってきたもの

受け渡しは、一方向ではありませんでした。

当時の我究館は、表参道沿いのビルの9階にありました。ある日、伊尾喜さんは近くのカフェで、大阪校1期生(我究館5期生)のOくんとランチをしていました。大学院入試の論文の添削を丸一日かけて一緒に行い、合格につながったこともある、打ち解けた間柄です。伊尾喜さんは学生の相談に答えるとき、よく映画のエピソードやセリフを引用していて、その日も話はすっかり映画に脱線していたそうです。

「そこでOくんが『伊尾喜さんって、映画の話になると本当に楽しそうですよね。もう目の輝きが違うもん』と言ってくれたんです。映画好きは、もともとめちゃくちゃ自覚していましたけどね(笑)」

そのころの伊尾喜さんは、我究館で働きながらDVD業界への足がかりを探り、映画の仕事をしたくてたまらない状態でした。自宅のホームシアターに学生たちがよく遊びに来て、『スター・ウォーズ』の上映会を開いたこともあります。「見せる代わりに、エントリーシート添削や模擬面接もやるからね」が条件だったそうです。

「PS2、DVDが再生できるようになりますよ。伊尾喜さん、DVDの仕事を始めるなら今ですよ」。ソニーに就職し、プレイステーション2の仕事に参加した6期生のAさんからは、そう背中を押されました。

「DVDの仕事をしたいと思っていたときに、引き寄せのように、二人からこうした言葉をもらったんです」

学生たちの一歩を後押ししてきた伊尾喜さんは、今度は教え子たちから、一歩を踏み出す言葉を受け取っていました。

30年たっても同じ言葉で

伊尾喜さんは、いま我究会(我究館OB・OG会)の名誉会長を務めています。50代になった古株のOBたちと集まると、よく「我究が人生でどう生きているか」という話になるそうです。

「うーん、いちいち教えるものじゃないんですよ。一瞬一瞬の自分の行動をどう選択するかこそ、そもそも我究の結果だよ、と。それだけ伝えてあげてください」。伊尾喜さんが現役の就活生に向けた講演を頼んだとき、あるOBはそう返しました。取材の前日にも、伊尾喜さんは別のOBから「我究っていうのは一生もんですね」というメールを受け取っています。副館長時代の伊尾喜さんは、学生に三行日記をすすめていました。今日やったこと、感じたこと、繰り返したくないことを三行で書いておくだけで、学生たちはだいぶ変わったそうです。

1期生のころのワークシートは、いまも受け継がれています。当時の就活雑誌『日経アドレ』に載った我究館の取材記事には、ワークシート「大学生活マトリクス」がそのまま掲載されていて、いまの『絶対内定』に載っているものと同じです。1993年の見学の日に伊尾喜さんが渡された「何のために働くのか」も、いまの『絶対内定』にワークシートとして収められています。

「『絶対内定』は、2028年版も95年版も変わらないんです。やっていることは実は非常に近いというか、本質は変わらないでやっております」

伊尾喜さんは2026年9月、2028年卒の学生たちである35期生に向けて講演をしました。1993年に伊尾喜さんたちが受け取った問いで、我究館はいまも学生を送り出していて、公式サイトでは第一志望内定率93.4%を公表しています。

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我究館で受け継がれてきたものは、ワークシートの紙だけではありません。太郎さんが伊尾喜さんに「君は情熱のかたまりだ」と言い、伊尾喜さんが列のいちばん後ろで学生に手を差し伸べ、学生たちがファミレスで朝まで互いの夢に向き合った。そうして人から人へ渡されてきたものが、50代になったOBたちの口から、いまも同じ言葉で出てきます。

一人でワークシートに向き合うことも、もちろんできます。それでも、書いたものに突っ込みを入れてくれる人や、くらいついてくる自分に手を差し伸べてくれる人がいる場所で、伊尾喜さんの教え子たちは変わっていきました。その場所は、いまも我究館にあります。

【我究館1期生 伊尾喜大祐さん インタビュー連載(全3回)】

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監修者プロフィール

絶対内定ラボ編集部

『絶対内定』シリーズは、日本で最初の就職・転職活動支援スクールである我究館による発行本です。大学生協18年連続売上第1位の一番売れてる自己分析本で、人気・難関企業への多数の採用実績をもとに、「何をすれば内定するのか」を具体的に提示しています。